今年もあっという間に半年が過ぎた。新入社員も入社3ヶ月が過ぎた。残念ながらもう2人辞めた。残った7名も大丈夫なんてことはない。
毎年1人ぐらいしか残らないが、この残る人というのはちょっと変わっている。今風ではなく、そして、少しずつ存在感が出てくる。それで十分だと思っている。ところが、今年みたいに同期が複数人いると、メリットとデメリットが生まれる。人間の本性だろう、すぐに群れを作り、和気あいあいムードが生まれ、先輩たちとのコミュニケーションがうまく取れなくなる。そして、同期がその場からいなくなるとすぐに無言になり、スマホに熱中。昼休みは自由ではあるが、解放ではない。この言葉の意味を深く味わうべきだ。
「昭和の枯れすすき」のジジイが何言ってんだと思うだろうが、職場の先輩の中には何十年もやり続けて今に至っている人間がいる。厳しさ、苦しさ、くやしさ、そして達成感を仲間たちと一緒に喜ぶ、こんな連続の中で自分にはこの仕事しかないと思い生きている。ということは、人に対する愛情も仕事に対する愛情も一緒なんだということ。全部自分の気持ちが決めている。
我々は1回しかない限られた時間しか生きられないわけだから、人から何かをしてもらうのか、自分から何かをするのかどっちなんだと問われている。
昔は職場に鬼がいると言われた。怖くて厳しい鬼がいなければならないと。最も怖い鬼は経営者だろう。怖くて厳しい存在はいつの時代も嫌がられる。今は、セクハラ、パワハラという言葉が横行し、「厳しさ」と「いやがらせ」を混同してしまう人間が増えている。部下に迎合する形で、やさしくていい人を演じる上司もいる。
本当にこんなんで大丈夫なんだろうかと思っていたら、先日キムタク主演の「教場」というドラマについての記述を読んで妙に納得した。それは、厳しい指導が消えていく時代に背を向けるような人物設定に興味を持ったということ。
一つの流れが大きくなってくると、それに対して人は疑問を持たなくなる。怖いのはそこだ。鬼は退治されることもあるし、鬼がいることで仏の存在が大切になる。この仏というのは、上述したやさしくていい人を演じているような人間とは異なる。「仏の顔も三度まで」という諺があるように、どんな温厚な人でも何度も無法なことをされれば怒り出す、要するに「鬼になり得る」ということだ。
だったら鬼に近づいていくことが自分のためになるし、成長への一番の近道だ。
自分にも怖くて厳しい鬼がいた。それが父親であり、仕事場では上司であり先輩だった。その人がいなかったら今の自分はいない。できれば鬼になれ。そして最後には仏になる。