適正な価格で、いいものなら存在する。どんな時代でも。
歴史ある家具製造メーカーで、全国から若い人が働きたいといって集まってくる、飛騨高山の会社へうちの若い社員10人で、先日見学に行ってきました。
日本人が時間をかけて技術を学び、技術を受け継ぎ、会社と自分たちの生活、そして技術を守るための適正な価格で出荷し、私どもがそれを仕入れ、店の社員が自信をもって販売します。
ごくごく当たり前の商いの形です。
しかし、グローバル化、経済の拡大、価格競争、そして生活者を消費者と呼び、いつの間にか、こんなはずではなかったという時代になった。
商いの形は破壊され、平気で価格破壊から人間の生活をも破壊するような現実が目の前にあっても、さらに、もっと早く、もっと安く、もっと簡単に、という価値観とともに、大切な事がなくなっていくことに気付かなくなっている。
いくらメイドインジャパンを増やし、物づくり日本などと云っても、現実的には非常にむずかしい。人口が減る、老人が増える、総需要は下がる。そんな時代に供給を増やしても需要は増えない。物があふれ、情報があふれている中で、もっと売上を上げてといっても、もうないものが無い時代である。
物質的には、もう十分すぎるほど豊かであること、だから若い人は自動車もいらない、新聞も読まない、テレビも見ない、ブランドもいらない、ということは「グローバル」とか「拡大」とか「競争」とか「成長」という考え方そのものが厄介な時代になったように思う。
小売業の王様だった百貨店ですら、どんどん閉店していく時代である。我々小売業という形が、10年、20年、30年、あるいは100年継続するということは、大多数の人にではなく、1%の人が今の時代何かおかしいと思っているはず。その人に向けて何か新しい価値観を生み出さない以上、残れないような気がする。
日本人がつくるものは高いに決まっている。それを買ってでも生きていく生活者として、互いの絆をつくることができるか、それが大事。
競争から共生を目指す価値観だと思う。なにがグローバルだよ、なにが成長だよ、なにが拡大だよ、私にはできない。弱い者の遠吠えです。弱者が生き残るには流れに乗らない、本質って何だろうと常に考え表現していくことではないでしょうか。簡単に残れない時代になった。楽しくやろう。