「効率化」「利便性」「生産性」を上げて業績を上げよう。耳触りもいいし、なんとなく正しい。これからはこうかと思う。さらに、少ない労働で大きく儲ける商売だけが残るとか、「わかるけどさぁ」ちょっと違うんじゃないの。なんて自分だけだろうか。頭のいい人や成功した人が発する事や一つの流れがはっきりしてくると、どうしても「そうだ、そうだ」になりやすいが、人は本来、多様性の中で生きてきたから、「今ってこうでしょう」と言われても、「いや、違うでしょう」があってもいい。なぜなら、すべてが一つの流れに流れることは、生きる力が弱まることにつながるからだ。同じ考え方、同じやり方、同質なものだけに囲まれていると自分が弱くなる。人はもともと野生の力があると言われている。この野生の力は使われなくなると、どんどん失われていく。だからこそ、俺はあえて流れに逆らって生きるとか、誰もが見向きもしないようなものにあえて挑戦するとか、時には非常にリスキーな場所へすすんで身を委ねようとする。効率だとか利便性とか生産性なんてどうでもいい。
今でも残っているのは、商売を始めた頃、何かの本で読んだ「5つを考える」という内容だ。
一つは、今を捨てる。
二つめは、今のルールがいつまでも通用しない。
三つめは、破壊しないと創造できない。
四つめは、常識を疑え。
五つめは、群れない、様々な団体に入らない。
この五つを意識してやってきた。
今、政治も経済も分断されつつある。勝った負けたではなく、多くの人が生きていくには、仕事を分け合って、非効率かも知れないが、互いに必要とされる仕事をすることだ。そこには「起業」よりも「商い」だったりする。「起業」という言葉には、どうしてもアメリカ的な価値観が強く根付いている。日本はずーっとアメリカの後姿を追い続けて来たからしょうがないかも知れないが、「商い」であり「商売」として考える時だと思う。個人的には、決して仕事をビジネスとは呼びたくない。最近、「経営の視点」という記事があった。コンビニ、宅配便、100円ショップなど、今では生活の一部となった「商い」は昭和、平成に誕生し、それぞれが新しい市場をつくり雇用を生んだ。この成功物語には、共通のエピソードがある。それは、冷たい視線を注がれたことだ。「どうせ失敗する」という嘲笑、「この嘲笑は成功の始まり」すごく響いた。
なんとなく、基本は同じ「五つを考える」につながるし、自分も粗大ゴミをひろう、そしていらなくなったものをもらう、かりるを意識してリサイクルショップを始めた時、周りから笑われた。「そんなんが商売になるのかよ!」だった。案の定、失敗の連続で今に至る。決して「起業」ではなかった。
「飽きない」で「呆れるほど」やって「商い」になってきたように思う。