商売を始めた時、全く「お金」がないからまずは粗大ゴミを拾って売ろうと思い、粗大ゴミステーションを回った。
何か所か回っていたら、「俺のゴミに手を出すな!」「ここは俺の縄張りだ!」とオッサンに言われ、こんなところにも戦いがあるんだな、みんな生きるために必死なんだな、うかうかしていられない、俺はもっといいゴミを拾ってやると覚悟を決めた。バカ丸出しの毎日だ。
それからしばらくして日本の古道具の世界に少し入り始めた頃言われたのが、「城丸よ、おまえ『だます』より『だまされる』ほうが悪いのがこの世界だぞ、わかったか?」だった。
なんとなく俺には向いていないと思い、そこから足を洗った。ただ古道具は扱いたかったのでどうしたものかと思っていた時に浮かんだのがアメリカの古道具だ。
車で行けるアメリカは米軍基地しかないし、金も無いわけだから北は青森の三沢基地、南は岩国、そして関東の米軍基地を回るようになった。
米軍の払い下げ家具を求めて15時間国道を走りやっとたどり着いた三沢基地で業者に開口一番に言われたのが、「お前今日『金』いくら持ってきた?」。
「10万円です」と言ったら、「たったそれだけか、ま、いいさ、売ってやるよ。ただし、次はもっと金を持ってこい、それか二度と来るな。」と笑いやがった。
これが俺の最初の仕入作業だ。
「俺のゴミに手を出すな」「『だます』より『だまされる』ほうが悪い」「お前、今日いくら金持ってきた?」忘れられない強烈な言葉だ。
当時の俺からすれば「ふざけるな」の気持ちしかなく、今に見ていろよと思っていた。
そこから本格的に米軍の払い下げ家具へと移っていき、都会のカッコイイ人達と出会い、そして古町商店街という当時の中心地で18年ぐらい商売を続けることができた。
ところが何を血迷ったか、新車のアウディクアトロを買って乗り始めたら昔からのお客さんに(しかもオバサン)に「あんた調子こいているよ。そのうち痛い目に合うよ!」と笑いながら言われた。「うるせぇな、大きなお世話だよ。」ぐらいに受け止めていたら、案の定、売上は下がるし、スタッフの顔色は暗くなるし、高級車に金を使うんだったら給料を上げろよと言わんばかりの空気が漂い始めた。本当にバカな自分だった。やっちゃいけないことをやってしまったと気付いてすぐにアウディを下取りに出して1.5tのトラックに変えた。
その時が25年前、古町から鳥屋野潟の倉庫に移転する時でもあった。
自己資金が無いから銀行から借金をした。この時の融資部長に「返せなかったら死なんばなんないよ。」と言われた。そのぐらいの覚悟を持ってやりなさいよという意味合いだったのかもしれないが、真意は分からない。50才での出来事だった。
それ以来自家用車はポンコツを乗り継いでいる。あらためて自分は心配性であり、貧乏性であり、小心者であると自覚した。
「あんた調子こいてるよ、そのうち痛い目に合うよ」「返せなかったら死なんばなんないよ」これも忘れられない言葉だ。
自分にとって厳しい言葉が今の自分をつくってくれたし、忘れられない言葉であり、ありがたい言葉なんだということに後になって気付くものだ。
昔からよく言われるように、やさしさは時として敵になり、厳しさは味方になる。
人と人のつながりというのは、面と向かって言えることがあるかどうかではないだろうか。
失敗の連続だったからこそ今があるように思う。