働くことに国が口を出すようになった。理由は電通の東大卒の女性社員の自殺という不幸な事件がきっかけで、急に流れが強くなった気がする。
我々が学生だった70年代は混沌とした時代で、70年安保があり、国という権力に対し反発し、対立することが当たり前だった。デモも多かった。
要は『個人と国』、そして社会に出て『個人と会社』、労働組合も勢いがあった。一言でいうと、激しい時代で、ちょっとでも国が口を出すことがあれば、反射的に逆うというのが常であったような気がする。それでも何となくバランスが取れていたようにも思う。
おそらく、すごいスピードで経済成長していたからだと思う。経済と幸福が一体化していて、伸びしろが多くあった。そして家族を思い、会社を思い、社会を思い、結果国を思う。悩み格闘しながらも、個人の幸せを追求できていた。
ところが、バブルがはじけてから長い経済の低迷を経て『改革』という言葉が、あっちこっちで使われはじめ、もはや日本人全員が、経済が成長すれば恩恵を受けられる時代ではなくなってしまい、一部の者だけが恩恵を受け、それ以外の多くの者が恩恵を受けれないとしたら、経済成長を促進するだけでは、この国の未来はないのではという空気。これではいけない、流れを変えてもっと前向きに努力すれば頭金なくても住宅ローンが組めるし、残価設定すれば新車を月々安いリース代で乗れるし、すばらしい生活がありますよ、本当にそうだろうか。限度を超えた労働時間で働いている上場企業、次から次へ不正が見つかる上場企業。みんな日本を代表する有名企業が、もっともっと儲けたい、なにがなんでももっともっと、そして人を不幸へと落していく、少なくても我々は利益なんて多くはない。国に口を出されて直せるほど余裕はない。働き方の改革は生産性の向上が裏側にあるとしたら、人の幸せなんて全く考えていない改革だと思う。