「私たちの暮らす日本という国は、どうあがいたところでアジアの小さな国で、大国の甚大な影響を受けて生きてきた。これからも変わりない。ある時期、この国の持つ技術力と経済力が世界で華やかに脚光を浴びたことがあったが、だからといってこの国が将来も世界の大国でいられるというのは幻想だろう。政府がどんな対策を講じたところで、少子高齢化を止めることはできない。人口が減れば大きな経済規模はいらない。次第に静かに下っていくのが自然の理なのです。日本人は、明治以来、西洋文明の影響を受け、それを取り入れて生活を西洋化してきた。しかし、欧米人と日本人では、感動する仕方が根本的に違う。」
2008年、五木寛之さんの「人間の覚悟」という本の記述の一部です。この本は680円。
グローバル化という流れが当たり前になったが、逆回転が始まった。頭の悪い自分に当てはめても、国ごとに通貨も異なるし、言葉も商習慣も違う、さらに文化も価値観も違う、そもそも国の大きさ、力の大きさも違う、そして気付く、世界よりもまず自分の国をどう守るか、何を大切にするのか、消費することが一番なのか、そのために仕事よりも休んで時間とお金を使う、それが豊かな生活なのか、これって誰かに利用されていないのか?もう一度、自分達の国や、自分は長く使える良い物を「つくる」という原点に帰って、消費することが美徳という考えを改める必要もあるのではないか。
グローバリズムからローカリズムも一つのあり方。昔、吉幾三の「おら、東京さ行くだ」という歌が流行った時代は高度成長期だった。今は「おら、田舎で暮らす」が新しい資本主義であり、もう資本主義をどうのこうのという時ではないと思う。
地方は、都会の真似をすること自体が「ダサイ」し、もっと自分達の地域の文化や芸術、あるいは歴史を見つめ直すべきだろう。あっ、そうそう、先日ノイズムの金森さんご夫婦が久しぶりに来店されて、話しをさせてもらった。彼も言っていた。「我々の表現も、東京だけが全てではない、新潟という地方で18年住んだからこそ気付くことがある。『芸術・文化』も地方からの発信が当たり前になってきた。」
当然、「商い」も全国をまたにかけて出店する大きな企業だけが必要とされるわけでもないだろうし、都会と同じようなハコモノを造って、集まってくれたら満足する時代でもない。本来のローカリズムは、街の住み心地・暮らしやすさが住みたくなると評価されていくのではないだろうか。その為に、俺達に何ができるのか。もう、資本主義や社会主義やグローバルなんてどうでもいい。日本は日本、新潟は新潟、そこしかない価値をどうつくるかで決まる。広く見ることと、狭く見ることも大切だと思う。もういい加減、「大量生産、大量流通、大量消費、そして大量廃棄」そしてまた繰り返す資本主義の基本的な活動も問われ始めている。
長く使える良い物を提供し、直してでも使いたくなる文化ってどうだろう。